真実のM資金

我田引水 皇族が犯した犯罪①
戦時下供出で、得たM資金が、提供者に戻る事無く、皇族自民党に使われている。
No!と云えない日本其の訳は天皇裕仁百﨑重夫の犯罪
米国の植民地支配から、解放されるのは、未だ、弐拾伍年有り。~
憲法の第一章は、天皇(皇族)で、国民(子供)は、第三章。何処の国でも、子供が宝。~
生前退位も、残りの期間を浩宮にさせたい為。令和に。。~
Non Governmetel Organization - East Asia Friendly Charity Wark Research Society
 동아우의자업연구회 NGO 활동 非政府組織 
東亜友誼慈業研究会 (とうあゆうぎじぎょうけんきゅうかい) のNGO活動
★ M資金で、円借款等の海外支援せず、年金で、食えない人に廻せ。!!★
★ 皇族が存在する限り、慰安婦と徴用工問題は解決しないし、日韓関係は、改善しない。!!★
★ 일왕이 존재하는 한 정신대와 징용공 문제는 해결되지 않을 것이며 한일관계는 개선되지 않을 것이다.!!★
* 画像は、此のサイトに付いて、クレームの電話をして来た後、ハンドルネームで、私の誹謗中傷を掲載したたなかあきらの部分の卓上日記。
* 画像は、百﨑重夫の59歳当時と東宮御所内で、富士重工群馬製作所製造のラビットに乗る天皇裕仁。
  当時、学習院中等科在籍中の上皇明仁も、乗り回したと云う(1949年)当時画像。

M資金のMは、マーカット少佐や、マッカーサー元帥等の頭文字とするが、百﨑重夫のMで有る。
戦争責任を負わず、日本弱体化と交換に、皇族の存在と此のM資金を得た天皇裕仁。

 戦時下、物資・金属等の供出が有り、敗戦した為に、其れが、米国に持ち去られ、米ドルに換えられた。
 我が家も、遠祖児島高徳公愛用の備前長船等の名刀も、ゴッソリ供出、父が、婿に来る前の女だけの家庭だったので、
簡単に上手い事を云われ、御国の為と、官憲に献上したと母は、云って居た。

 戦後復興の為、資金が必要な事は、明白で、其の米国に有る供出で、賄った資金を昭和天皇裕仁は、マッカーサーとの約束で、日本の弱体化を認め、
皇族維持の為の資金を要すので、百崎重夫に命じ、米国に返還要求をさせた。
 重夫は単身、米国に乗り込み、2千億ドルの債務保証を取り付け、五百億ドルの現金を持ち帰った。合わせると現在の貨幣価値で、百兆円を超える。
 皇族継承の為、マッカーサー元帥と密約を交わし、皇居の有る東京に、原爆を落とさず、軍事施設が有る事を言い訳に、
広島・長崎に原爆を落とす事を提案し、戦艦から小銃等の兵器に付いて居た菊の御紋を小刀や小石で削り取る様命じた
 戦艦<大和><武蔵>を設計した庭田尚三中将に、菊の御紋が両艦の先端に付いて居たのを聞いた事が有る
 そして、マッカーサーは、農地開放を行い、供出と同じに取られ、現在の同和社会のスタートに成ってしまった。
 慰安婦徴用工問題等韓国の民間の怒りは、皇族が消滅しない限り終わらない。
米国は、皇族を残す憲法で、日本を蹂躪し、野田佳彦から、安倍晋三に政権が代わる際、議員定数削減を約束したが、弱体化の為、許可しなかった。
 18/10/15再び、青瓦台表敬訪問の誘いを受けたが、文在寅はどうも好かず、参加し無かったら、訪問した人から、
ローマ法王面会の為、官邸に居らず、日韓親善協会中央会は、袖にされ、日本は眼中に無いと云う事です。
 伊勢志摩サミットの前後・最中に、山口組と神戸山口組の抗争が無い様に、
自民党総務会と此の二つの組織に、取引が有ったのと同じ、日本人特用の自分さえ良ければ、他人は構わない取引で有る。

 新聞記者を遣って居た関係から、非常に状態の悪い書面を入手し、此のソースとする(下に画像有)。
 此の歴史的事実を私は、新聞記者時代に、情報提供されたが、提供者が生存中は、公表しない条件で、受領した。

 然し、其の条件が満たされ、又、安倍総理の外遊とばら撒きに意見する意味で、公開する事にする。
 そして、WEB上で、<一般社団法人百崎重夫復興社団>為る法人が、存在する事を知り、
下記の様に、書面を送付したが、所在不明で、戻ってしまい、其の内容も、公開する事にする。
 安倍心臓(心臓が相当強い晋三)は、憲法改正を謳って居るが、降伏から一世紀は、植民地の条件なので、
未だ弐拾六年間米国が作った日本国憲法は、改正出来ない
のだが、再選後、安倍内閣への支持率は42%強で、
安倍晋三の後を受けた菅義偉は、1月23・24日の朝日新聞社全国世論調査で、菅内閣の支持率は33%と期待されず、
長女が皇室を離れる時、壱億伍千弐百万円もの血税が支給されると云う。
 現在の植民地状況を知って居る人は極めて少ないが、先日御存じの人と面談した。

【主人公・百﨑重夫

 M資金を米国から、取り返して来た人物で有る<百﨑重夫>は、大正三年八月十五日、長崎県壱岐島の旧家栄一郎の一人息子として生まれた。
 父親は、名誉欲が強く、気風が良かったので、人から頼まれると断る事が出来なかった性格の為、散財し、母親が、東奔西走する姿を見て、育った。
 満州に居る叔父の薦めで、拾歳に成ったばかりの重夫は、仙台幼年学校に入学する。
 本来、幼年学校は、中学一年・ニ年生を終了しないと入学する資格は無いのだが、特別な計らいで、
入学する事が出来、叔父の厳しい躾で、期待に応え、学業は上位だった。
 三年間の幼年学校を終えると、叔父は、重夫に一言も無く、満州の龍井中学校へ行く事を決められた。
 其の頃、叔父は、妻の資金で、表向き、満州砂糖組合の理事長に納まり、台湾から、砂糖を輸入したり、裏の商売もしていた。
 叔父は、壱岐から、釜山の中学を出た後、早稲田大学を卒業後、満州に渡った。
 満州の吉林省龍井では、領事館も有り、内地から行く場合、便利な所だった。
 叔父は、子供が無かった事から、養子にしたいと母親に、日頃から云って居たが、母親は、其れを許さなかった。
 龍井中学校で、重夫の二年先輩に、スミスと云う英国人が居て、仲良く、何時も、一緒に居たのだが、
スミスの父は、キリスト教の宣教師をしながら、高校の教師をして居た。
 スミスとは、始めの内は、会話がもどかしかったが、龍井中学校は、半島人の生徒が400人居て、中国人が95人で、日本人が重夫、
英国人がスミス、露西亜人・印度人・独逸人各一人で、そんな環境の中で、ハングルを読み書き、中国語を覚え、英語の会話も、出来る様に成った。
 拾五歳に成った重夫に叔父は、「昔なら、元服なので、一人前だから、私の仕事を任せても、良いな」と云い、少しづつ、人脈作りを形成する。
 龍井中学校を終えると、知事クラスの推薦が無ければ、受験すら出来ない旅順工科大学に、
軍部の推薦と本人の成績で、入学する事が出来、鉱山科と政治工作員諜報活動専門養成科を学び、叔父の期待に応えた。
 旅順工科大学を卒業した重夫は、軍部から、少佐の階級を与えられ、鉱山の探索と称して、政治諜報活動に携わった。
 軍部から発注される土木関係の仕事も請け負い、鹿島・清水・大成のゼネコンへ、丸投げし、
一割の手数料を得て居たが、其の殆どは、関係者の飲み食いで、散財してしまったが、信頼を得て居るので、金には困らず、贅沢をする事が出来た。

馬占山との出会い】

 此の時期、満州の関東軍は、勢い図いて居たが、蒋介石軍の軍事顧問である馬占山率いる匪賊と呼ばれた馬賊のゲリラ戦法に手を焼き、
厄介な存在だったが、斉斉哈爾で、日本軍に敗れ、投降し、翌年、日本軍と協議し、
満州国初代軍政部総長に就任したが、抗日軍を組織して、反日したが、再び敗れ、露西亜に逃げた。
 1941年馬占山は、黒竜江省主席に成り、日中戦争に参戦、日中戦争が終了後、国民党政府と中国共産党との内戦に際しては、
国民党政府から1947年東北保安副指令、1948年には、東北騎兵総司令に任命された。
 ◎ 馬占山の本名は、秀芳で、張作霖と同じ馬賊の頭目。
   河北省出身。南京中央政府から1931年黒竜江省省長兼軍政部総長に就任。
 重夫は、そんな蒋介石に、人望の有る馬占山に会う為、国民党政府を樹立した北京に向かった。
 然し、三日間探したものの、馬占山は、北京に居ず、重夫は、吉林省に帰る事にしたのだが、
馬賊に襲われた際、「お前は日本人か?何処に行くのか?」と聞かれ、「馬占山に会いに、北京に行って来た」と答えると、
「馬占山に会える筈が無いだろう」と云われ、「如何してか?」と問うと、「馬占山将軍は此処に居る」との事で、
「其れなら、合わせてくれ、会って話したい事が有る」と云うと、其の馬賊の者が、指揮官らしき者の元に行き、何やら話した後、
重夫に向かって、手招きをし、「こっちに来い」と云うので、行くと、「此の人が、将軍だ」と引き合わせてくれた。
 馬占山は、重夫に向かい「お前の名前は?如何して、お前は、私に会いたいのか?」と聞き、
「日本人の百﨑重夫です」と自己紹介後、「降伏する事を貴方に進言したい。其れを蒋介石総統に会って伝えて戴きたい」、
更に、「出来れば、蒋介石総統と会談したいのだが、先ず、馬占山将軍とあってからと思い」と答えると、「総統と会って如何するのだ」と聞くので、
「降伏を進言したい」と答え、「お前は、日本軍のどんな地位か?」の問いに、「僕は、軍人では有りません」と答えると、
「軍人で無いお前が、何故、軍の話に口を出すのか?」と云うので、「満州国の平和を願う為にです」と云うと、
「判った。連絡するから、吉林へ帰ったら、石原莞爾参謀に、お前が、私に会った事を告げなさい」と有りがたい言葉を貰う。
 重夫は、馬占山から、石原莞爾参謀の名前が出たので、吃驚した。
 吉林省に帰って直ぐ、関東軍の参謀室へ行って、馬占山との経緯を石原莞爾参謀に話した処、
石原莞爾参謀は驚いて、「其れは本当か?」と尋ねるので、「間違い有りません」と念を押すと、
「直ぐ、内地へ報告、民間人の百﨑重夫が馬占山との面会に成功と打電せよ」と部下に命令した。
 一週間が過ぎる頃、馬占山の使いだと云う中国人が一通の書簡を持って来て、
其の手紙には、<蒋介石総統が、会っても良い、何時でも、北京に来られよ>と書いて有った。
 重夫は、急ぎ、石原莞爾参謀に見せると、内地に連絡して、陛下に上奏した為、
陛下は、「百﨑重夫と云う人物は、どの様な者か」と宮中の側近に問うたが、誰一人知る者は無かった。
 陛下は、石原莞爾参謀に打電して、重夫に宮城に来る様指示した。
 重夫は、急遽、吉林から鳥取の米子まで、軍機で帰り、拾壱年ぶりに内地の地を踏んだ。
 米子から、列車で拾四時間揺られ、漸く、東京駅に着くと、宮内庁の車が、迎えに来て居て、重夫を乗せ、宮城に向かった。

天皇裕仁との出会い】

 「貴方が、百﨑君ですか?」と陛下は尋ね、「はい、百崎重夫と申します。本日は、御拝謁の栄に賜りまして、誠に光栄で有ります」と答えると、
「貴方の事を調べたのですが、誰も知る者が居ないのですが、どの様な経歴なのですか?」と尋ねるので、
仙台幼年学校からの経歴を申し上げたら、陛下は、「貴方は、馬占山と会われたそうですが、どんな方ですか?」と尋ね、
「未だ、一度しか会って居ませんので、詳しい事は判りませんが、彼が、蒋介石総統に会わせてくれると云う約束を戴きました」と書簡の内容を申し上げた。
 陛下は、「然うですか、其れは、誠に朗報ですね。蒋介石総統に会われたら、私が大変心を痛めていたと御伝え下さい」、
「一日も早く、此の日中戦争を終結しなければ成りませんから」「蒋介石総統は、和戦協定を拒否するかも知れません」更に、
「軍部には、其の事を伝えず、貴方が差支えなかったら、総統との会談内容を直接報告して下さい」又、
「貴方には、大変な御苦労を掛ける事に成りますが」と重夫を労った。
 「はい、其の様にします」と答えると、「其の代わり、軍の乗り物は、何を使っても、結構ですから、出来るだけ早く、報告して下さい」と仰り、
「今日は、大変お疲れのところ、お越し頂いて、有難う。今後も、身体を大事にして、、御活躍下さい」と別れの挨拶をされた。
 重夫も、挨拶を返し、夜行列車で、下関に向かい、関釜連絡船から、京城・平壌経由で、吉林に帰った。

蒋介石との出会い】

 宮城への五日間の旅の疲れも、取れぬ間、北京に向かった。馬占山は、快く、重夫を迎えてくれ、蒋介石の執務室に案内してくれた。
 「総統、彼が此の間話した日本人の百﨑重夫と云う人物です」と紹介すると、
蒋介石は、「良く、来られました。どうぞお座り下さい」とソファを勧めるので、立居で、重夫は、挨拶と簡単な自己紹介をした。
 「貴方は、中国語が大変お上手ですが、何処で、勉強しましたか?」と尋ねるので、
「私は、十三歳から、満州で暮らして居ますので、言葉は、大丈夫です」と答えると、
「ところで、貴方が私に用事が、有るとの事ですが、どの様な事ですか?」と用件を聞くので、
「此方に来る前、天皇陛下に、私が総統閣下に御会い出来る事を上奏申し上げました」
「陛下は、此の日中戦争で、大変心を痛めて居られると云う御託を申し使い、陛下のお言葉を御伝えに来ました」と告げ、
「付きましては、総統閣下は、此の日中戦争をどの様に分析されて折られますか?」と総統に云うと、
「陛下が其の様に申されましたか?此の戦争は、日本が仕掛けて来た物です」
「日本は、此処迄来て、戦争する必要は無いでしょう?早く、軍隊を撤退させるべきです」の言葉に、
重夫は、「総統閣下の方から、降伏して戴けませんか?其れが無理なら、停戦の御考えは、有りませんか?」と問う。
 其処へ、蒋介石の夫人宋美麗女史が、重夫に「此の馬鹿野郎!!」と怒鳴って来た。
 驚いたが、中国の大半の実権は、宋美麗一族が握って居たから、
蒋介石でも、口が挟めず、宋美麗女史の言い成りだった。(重夫24歳の時である)
 「百﨑の考えは、一方的です。此の戦争は、日本領土の拡大を計った日本軍が、始めた戦争です」そして、
「満州を自国の領土として、更に、重慶・南京・河南・河北・上海と続けて、没落させました」又、
「我が方は、此の侵略戦争に対抗しなければ、漢民族の誇りが許しません」「今回、日本が停戦を申し出て来るのが、二年遅かったです」、
「今は、国連軍が支援して居ますので、私だけで、止めるのは難しいです」と云うので、
重夫は、「総統閣下の御考えは良く判りました。私は、此の経緯を陛下に上奏します」と伝えると、
蒋介石は、「東京に帰られたら、天皇陛下に、心遣いを感謝申し上げて居たと御伝え下さい」、
「今日は有難う御座いました。処で、百﨑は、陛下の密使なのですか?」と聞くので、
「いいえ、私は、此の戦争を一刻も早く、終結させたい一民間人です。御理解下さい」と答えると、
「良く判りました。今後は、何時でも、遠慮無く、訪ねて下さい」との挨拶を受け、
蒋介石・宋美麗・馬占山に挨拶を返し、外に出ると、日本軍の大佐クラスの軍人等が列をなし、面会の順を待って居た。
 此の頃、重夫は、中佐の階級を貰って居たので、臆する事は無かった。
 重夫は、南京から羅津迄、列車で行き、其処から、海軍の潜水艦で、東京に向かったが、
艦内は蒸し風呂の様に暑く、然も、艦長は、重夫よりも、階級の低い中尉だったが、絶対的権限が有り、重苦しい雰囲気の中、
東京港に着き、宮城へ向い、陛下にお目通りを願い、陛下に、蒋介石との一部始終を御報告申し上げると、
「貴方の力で、蒋介石は考えを変えられると思いますか?」と尋ねるので、
「私は、軍から中佐の階級を貰って居ますが、一民間人ですので、其れは、至難の業です」と答えると、
「蒋介石は、日本の軍人を信用して居ません。貴方の様な民間人なら、信用してくれるでしょう?」
「兎に角、もう一度、蒋介石と会って、私の本意を伝えて下さい」と陛下が、申されたので、
重夫は、勅命として受け、満州へ戻り、北京の執務室へ、蒋介石を訪ねる。
 蒋介石は親しそうに、「何時戻って来ましたか?」と聞いて来たので、「昨日、吉林に戻って、今日北京に来ました」すると、
「百﨑、お疲れでしょう?酒にしますか?お茶にしますか?」と気を遣った。
 重夫は、酒を飲まないので、お茶を頼むと、茶菓子が出て、宋美麗も同席した処で、陛下との一部始終を話したら、
蒋介石は、「日本軍は、後二年持たないでしょう?其れが、私と国連軍の見解です」
「其の前に、日本軍は撤退する事が、賢明です。其れをしないと日本は、壊滅的な打撃を被るでしょう?」
蒋介石は、重夫を諭す様に話し、「日本軍は、降伏しろと私に迫って来て居ますので、陛下が百﨑に、交渉役を命じた事は的確です」と云う。
 「どうしても、総統閣下は、停戦の御考えは無いのですね?」と念を押すと、
「国連軍が居る為に、私の決定権だけでは、どうにも成らないのです。此れを陛下に御伝え下さい」
そして、「孫文先生も、私も、日本には、大変お世話に成って居ますし、陛下を御尊敬して居ます」と付け加えた。
 重夫は、蒋介石と腹を割った話し合いをし、結論が出たので、辞し、大連から、潜水艦で、又、嫌な想いをしながら、
横須賀港に入り、東京駅まで列車で行き、東京駅で待つ宮内庁の車に乗り、宮城に入と陛下は、待ちかねた様に、重夫と会談に入る。
「大変お疲れの事でしょう?本当に御苦労を掛けますね。処で、蒋介石は相変わらずでしたか?」と陛下は尋ねた。
 「はい、蒋介石は、陛下の御壮健を念じ、御気持ちは十二分に理解して居ますが、彼の一存では思う様に出来ないと申して居ました」と、
蒋介石との会話内容を一言も漏らさず、御報告した。
 「そうですか、軍部は、情勢分析が出来て居ないと云う事ですね?御苦労ですが、又、蒋介石に伝えて下さい」。
 こうして、重夫は、陛下と蒋介石の調整役として、数え切れない程、日中間を往復した。

敗戦玉音放送

 重夫が、陛下と蒋介石の調整役として、数え切れない程、日中間を往復しているのにも、拘わらず、戦況は、益々拡大し、
日中戦争から、太平洋戦争と名を換えて、満州に駐留して居た関東軍も、南方へ、転戦し、松岡洋祐外相が、国連軍に対する仲裁を露西亜に依頼した事から、
日本敗戦確実と見たソ連は、昭和弐拾年八月六日不可侵条約を破棄し、満州へ、総攻撃を開始し、
樺太及び、北方四島・千島列島迄占拠した。満州に居た重夫は、蒋介石の助けで、内地に帰る。

マッカーサー元帥との出会い】

    画像は、韓国・仁川市自由公園のマッカーサー元帥銅像。丁明植/정명식 안내 2015.06.01訪問。
        そして、該当なしで戻って来た、【百崎社団】宛の此のpage写しと書面が、入った封筒。

 重夫は、GHQ本部が有る大手町へ、日参し、何としても、マッカーサー元帥に会い、日本の復興を訴える心算だったが、
行く度、MPに追い返されたが、めげず、執拗に通ったら、元帥は気に成り、資料を探って居る内、陛下と重夫が写って居る写真を発展し、
只者では無いな、会って見ようと成り、重夫は、マッカーサー元帥に合うや否や「元帥は戦勝国の司令官です」、
「日本は戦争に負け、其の荒廃ぶりを御覧に成って居るでしょう?」と聞くと、
元帥は、通訳を遣い「はい、良く見て判って居ます」と答えるので、
「御覧の通りが日本の現状です。此の儘では、何時復興すると考えますか?」と聞くと、元帥は、「私には判らない」の回答なので、
「戦争に勝った国が、敗れた国の復興と経済回復を計る責任と義務が有るのじゃないですか?」
「元帥の責任で、日本を救済し、国土復興と経済の建て直しを計るのは、元帥の責任です」
「もし、其れが出来ないなら、元帥は、占領国の総司令官としての資格が無い大馬鹿者です」
大馬鹿者と云われたマッカーサー元帥は、赤鬼の如く怒り出して、
「大馬鹿者とは、何事だ。私は、陸軍士官学校を首席で、出て来た人間だ。許せない」。重夫は、其の怒る言葉を待って居た。
わざと喧嘩を仕掛けた訳だ。「貴方の責任に於いて、此の現実を何とかして下さい」と云うと、
マッカーサー元帥は、返す言葉が無く成って、「今日は、このへんで、此の話は止めましょう」と云うので、
「判りました。然し、元帥が日本復興に、全力を尽くすと云うまで、毎日来ます」元帥は、「判った」と云い、別室に行ってしまった。

グレイス大佐との出会い】

 其れからも、重夫は毎日GHQに日参し、重夫と元帥は、毎日復興と其の資金の相談をしたが、進展は無く、
 司令官であるマッカーサー元帥でも、資金の権限は無いと云うので、
重夫は、「司令官に権限が無いならば、本国の責任者に連絡を取って下さい」
「そうして、善処する事が、元帥の責任です」と云われたマッカーサー元帥は、
女性秘書のグレイス大佐を呼付け、
「百﨑の件は、君に任せるから頼むよ」と押し付けてしまった。
マッカーサー元帥に出来無い事が、其の部下に出来る事が無く、重夫とグレイス大佐の間では、
連日押し問答が続いた後、大佐は、理解する事に成り、マッカーサー元帥に進言をして、
米国の本部に、マッカーサーの専用機で、重夫を連れて行く事に成る。
 ニューヨークに付き、大佐が用意させた車で、マンハッタンに向い、
大きな建物の前で、車が止まると、グレイス大佐は、「百﨑さん着きました」と云うので、
英語が理解出来ない重夫は、従弟の丸山と本多を呼んで、通訳させる事にした。
 米国側は、四人居て、其の中に、スミスが居たので、重夫は驚いた。
 スミスは、満州龍井中学校の二年先輩で、中国語と朝鮮語が話せる英国人で、香港育ちである。(詳細は、【主人公】の項)
 重夫は、スミスと仲が良かったが、スミスが中学卒業後、音沙汰が無く成ってしまったので、心配していたが、此処に居るので、心強かった。
 米側に、若い人物が居て、主導権を握って居るのだが、重夫が、
 「貴方方は、戦勝国で、戦勝国が敗戦国の焦土と化した、国土の復興と経済の再建を支援すべきだ」
「其の為には、資金を提供すべき、責任と義務が有る」と云うと、
其の若い男は、「私は、グリーンスパンです。ミスター百﨑貴方は、何と乱暴な人だ」
「こんな理不尽で、無茶な事を要求すると殺されてしまいますよ」と脅してきたが、重夫は怯えず、
「僕が殺されて、日本が救われるのなら、喜んで殺される」
「然し、日本の復興と経済再建を今此処で、日本に金を出すと約束してくれ」等と押し問答が繰り返され、
朝から始まった話し合いも、食事も摂らず、水も飲まず、夜十時を回ってしまった。
 旅券・査証の無い重夫が、此の様に、グレイス大佐の好意で、軍用機等を利用し、グリーンスパンの許に通った。
 英語の出来ない重夫は、間違えて、或時は、ブラジルやカナダ行の機上の人に成ってしまった事も有る。
 然し、重夫はめげず、重夫の渡米は、三十回以上にも及んだ。
 或時、グリーンスパンは、頭を抱え、考えて居たが、「百﨑、貴方は、天皇裕仁の署名を持って来られるか?」と問いかけ。
重夫は、「結構です。陛下の御署名が有れば、何とかなると云う事ですね?」
「天皇裕仁のサインを百﨑が持って来れば、何とか考えましょう」と答えるので、重夫は、小躍りする程嬉しかった。急いで、帰国する事にする。
 羽田に到着するや否や、米軍のジープを用意して貰い、宮城に向かう。
 陛下に経過を説明して、「陛下の御署名を米国が、御所望して居ます」「私に、御署名を御拝領賜りたく御願い申し上げます」と御願いすると、
「大変な御苦労でしたね。良く、頑張ってくれました。署名を出します」「然し、宮内庁には、内緒ですよ。知られると面倒に成りますから」と漢字で、
裕仁と署名をされ、重夫は、手渡しで、拝領された。
 拝領された御署名を風呂敷に包み、懐に入れて、マンハッタンに蜻蛉返りしたのである。
 従弟の丸山と本多は、其れを見せられ、「兄貴すごいなー」等と云って居る時、グリーンスパンが、出勤して来たので、重夫は、
「貴方の申し付け通り、陛下の御署名を戴いて来ましたので、今度は、貴方が約束を守る盤ですよ」
そう云いながら、重夫は、陛下の御署名をグリーンスパンに差し出したら、グリーンスパンは、見る見る間に、顔が青ざめ、手が震えだしてきた。
 暫く経って、グリーンスパンは、此処に保管して有った、陛下の若い時を署名を暫く、見比べ、
「百﨑、私は貴方に、陛下のサインを持参すれば、何とかすると約束したけれど」
「本当に、サインを持参するとは思いませんでした。此れは、天皇裕仁のサインです」と認めた。
 「百﨑、米国は戦勝国ですが、米国にも、資金が無いのです。如何すれば良いか教えて下さい」と逆に、助けを求めて来た。
 グリーンスパンは、陛下の御署名を持って来られないと思って居たのである。
 難題を吹っかけて、試したのに、本物の御署名を持参した物だから、彼は、手が無くなったのである。
 重夫は、鞄からメモとペンを出し、文章を書き出し、従弟に「此れを訳してくれ」と翻訳させ、
「貴方の云う事は良く判りましたが、30回以上も、此処に来て居ますので、手ぶらで帰る訳にはいきません」
「ましてや、今度は、御署名を持参しているので、此の書類に署名をして下さい」と文面を提示した。
 グリーンスパンは、読み終えると、「百﨑、此れは、私のサインでは、効力が有りません」と云いながら、別室に行き、
「百﨑、ボスのサインを貰いました」とタイプ刷りの文面を見せられ、
 内容は、<亜米利加合衆国は、日本政府に戦後復興の為に、米ドルで、二千億ドルの債務保証を行う>
<日本政府は、其の債務保証に基き、日本銀行券を発行し、日本の戦後復興と経済回復の基とする>
<万一、日本経済が破綻した場合は、亜米利加合衆国が、其の債務を保証する>重夫とグリーンスパンは、抱き合って喜んでしまった。
此れが、M資金ばら撒きの始まり。!!★

朴正煕との出会い・四兆円の貸付】

 ◎ 上左の画像は、サンケイ新聞社出版局発行<朴正煕大統領>。
    仝中の画像は、1999年6月29日<金大中大統領>を青瓦台大統領官邸訪問。
    仝右の画像は、衆院副議長を務めた社会党の松本治一郎は、此のМ資金の存在を知って居た。

 慶尚北道高霊郡出身の朴正煕は、満州を訪れる毎、満鉄の大和ホテルに滞在し、重夫と夜明迄、話す様に成った。
 朴正煕は、創氏改名で、高木正雄と称して居た時、陸軍士官学校を首席で出て、日本軍の将校に成って居た。
 貧農の家庭に生まれたが、親は、教育だけは、十分に受けさせ、陸軍士官学校迄出させてくれた。
 朴正煕は、重夫の事を「先輩」「先輩」と呼び、慕って、兄の様に思って居た。
 重夫は、青瓦台に国際電話を掛けたが、相手が、拙い日本語だったので、激怒したが、朴正煕大統領に替り、大統領に、
「変な日本語を使う奴を秘書に使っては、駄目だ。今から、ソウルに金を持って行くから、空港に出迎えてくれ」と云い、
大統領は訝り、「金って、何の事ですか?」「詳しい事は、ソウルに行って、話すから、兎に角、金浦空港迄、向かいを寄越してくれ」
「判りました。其れで、何時来るのですか?」「明日午後に着くから、御願いします。」
「判りました。日本語の上手な者を通訳に付けますから、安心して下さい」と云う事で、翌日、重夫は、金浦空港に降り立った。
到着すると、<百崎様>と書いたプラカードを持った若い青年が、迎えに来ていたので、百﨑は、其の青年の側に寄り、
「百﨑です」と話し掛けると、「大統領に命じられて、御迎えに来ました」と流暢な日本語で答え、
大統領の遠縁の金某と名乗り、金某は、慶応大学を卒業し、橋本竜太郎の先輩であると云う。
 青瓦台に着くと、朴正煕は、玄関に出迎えて居て、「先輩!お久しぶりです。お元気でしたか?満州以来です」と喜び、
「昨日、突然電話して、今日会って、一体何が有ったのですか?」と訊ねた。
「朴さん、大変偉く成ったものですね。大統領に成ったと聞いた時は、驚きました」
二人は、漢江沿いの韓国料理店に、場所を替え、弐拾数年の時間の隔たりを越え、時間の経つのも忘れ、話に夢中に成り、翌朝まで、語り明かし、
「此処に、4兆円の小切手が有ります。此れを韓国の為に、遣って下さい」と手渡した。
朴正煕は、「先輩が、此処迄、心配してくれたとは思いませんでした」
「本当に有りがたい事で、何と申し上げれば良いのか、判りません」と答えた。
 重夫が、「明日、台湾に行こうと思って居るのです」と云うと、「其れでは、軍の飛行機を用意します」と便宜を図ってくれた。
重夫は、朴正煕が、準備した軍用機で、台湾に向かう。

蒋介石との再会・四兆円の貸付】

 朴正煕から、蒋介石へ、連絡が有り、無事到着した台湾の松山空港には、迎えの車が有った。
 日本が統治して居た時の侭の総督府へ着くと、体格の良い紳士が挨拶したが、支那時代北京で、何度か会った何応錦副総統である。
 三人で、話して居る処に、宋美麗総統夫人も加わり、昔話に、時を忘れる。
 国連軍の陛下に対する戦犯と列島分断政策を蒋介石が、喰い止めてくれた事に、
感謝し、「総統が、露西亜に賛成したら、日本は大変な事に成って居ました」と云いながら、
4兆円の小切手を出し、「此れを総統に使って貰う為に来ました」「此の資金で、台湾の経済発展に繋げて下さい」と云うと、三人は、吃驚してしまった。
 「此れだけの金が、今の台湾に有れば、此処の経済は発展します」と蒋介石は答え、
宋美麗の経営する円山大飯店に泊まった重夫が去った後、小切手を日銀に廻して、現金化し、台湾の為、使ったと云う。
 数年後の1975年4月死去してしまった。

泰王国に弐兆円の貸付】

 重夫は、台北から泰国バンコクに向かった。其れは、戦争で、泰国の王室と其の国民に謝罪する意味からで、天皇裕仁も、同じ考えだった。
 バンコクの到着したものの、知り合いは無く、言葉も不自由なので、日本大使館に行き、大使に会うと、
「外交官で無く、政治家等でも無い民間人が、何故、王様に会いたいのですか?」
と迷惑の様子だったので、「天皇陛下の意を受けて来たのだ」と云うと、王家に電話して、了解を得、通訳を付け、大使館の車で、宮殿に向かった。
 王様は、天皇の様子を窺い、山田長政からの日本との縁を語り、太平洋戦争の不幸を嘆いたので、陛下も、陳謝の念で有る事を告げた。
 日本銀行の弐兆円の小切手を呈示すると、王様は、大変喜び、
「今の泰国に取って、願っても無い天の助けで、陛下と日本の皆さんに宜しく御伝え下さい」と云い、豪華な泰料理を重夫は、戴き、宮殿を後にした。
 此の朴正煕に貸した四兆円、蒋介石に貸した四兆円、泰国王家に貸した弐兆円の計拾兆円は、拾年後に日本政府が、回収したと云う。

M資金を遣った連中】


 当時首相だった吉田茂は、此の事実を知り、米国に意見した為、自民党も、おこぼれを頂戴する結果と成り、以下の通りで有る。
久保正雄  参百兆円を払うから、海外移住してくれと中曽根康弘達に依頼され、
昭和五十一年(1976)一月三十一日九段のグランドパレスに当宿中の重夫を訪た政治ブローカー。
 更に、昭和五十五年(1980)六月十一日重夫と大平総理との会談に案内。
 銀座で、東日貿易を経営し、印度尼西亜のスカルノ大統領に、第三夫人として、
当時、力道山等が通った赤坂の「コパカパーナ」に勤めていた根本七保子を紹介する。此れが、デビ夫人。
 其の縁で、印度尼西亜からの海老の輸入で儲け、岸総理が、印度尼西亜に支払う戦後賠償にも、
深く関与し、利権を得た。長嶋茂雄の後見人だった事も、有名で有る。
鳩山一郎 短命総理だったが、重夫の了解を得て、M資金を遣い財政危機を乗り越える。
石橋湛山  仝上。
岸信介  重夫と意見の異なる日銀総裁だった一万田尚登を大蔵大臣に登用し、日銀内に有るM資金を還付金方法で、重夫に内緒で、引き出すのに成功。
池田勇人  石橋内閣の蔵相時代から、M資金の存在を知って居た池田は、所得倍増論で、使い出した。
佐藤栄作  沖縄の本土復帰の際、此のM資金を拠出して、ノーベル平和賞を受賞。
田中角栄  池田内閣の蔵相時代M資金を調査し、自分の時代を準備し、中国との国交回復の時、此のM資金から、拾兆円を持参した。
 我が家の分家を名乗る入内島金一が、角栄経営の田中土建専務を務め、室町産業社長として、信濃川河川敷問題を犯す。
 酒田大火後、山口組田岡一雄三代目組長が、遊興都市にしようと乗り込んだが、田中角栄と話が付き、
自民党から、利権を得る約束を取り付け、自民党の御用達を得た。
 (私は、此の時期、資材運びで、酒田市に何度も行き、中島飛行機で、父の部下だった香具師に、聞き取った)
 * 田中角栄の父角次は、同和の生業で有る馬喰を遣っていたのだが、起死回生を狙い、
  済州島へ子牛の仕入れに行き、育てて売る心算だったが、越後は寒く、
  子牛は育たず、沖縄の知人に売却してしまった。其の牛の子孫が神戸牛・松坂牛・米沢牛等で有る。
大平正芳  角栄の操り内閣だった大平正芳は、昭和五十五年(1980)五月三十日参院選の応援演説を新宿で、第一声を上げた時、
心筋梗塞で倒れ、虎ノ門病院へ担ぎ込まれる。
 仝六月十一日久保正雄と共に、大平に呼ばれた重夫は、歴代の総理達が、重夫に断り無く、M資金を使った事を詫び、
参兆七千億円支払いの約束をし、M資金の存在と重夫の功績を公表する事を約束したが、翌朝ニ時半鬼籍に入ってしまった。
 重夫との此の会話の場に居た何者かが、大平の点滴に薬剤を混ぜ、殺害したとの事で有る。
大平は、重夫が、戦後の日本を再建させた最大の功労者で有るとして、日本政府と歴代総理と自民党が、
重夫に対して、犯した過ち等を謝罪して、参十七兆円の支払いを約束、だが、現金が政府に無いので、其の一割を払う。
鈴木善幸  大平の死去後、宏池会は、総理の器では無い鈴木善幸を後継にしたが、
角栄の傀儡政権で、日ソ漁業協定で、ソ連に此のM資金を持ち出す。
中曽根康弘  御存じ金の匂いに向く風見鶏。私の遠祖児島高徳公六百年祭に御尽力願った庭田尚三海軍中将が、
中曽根康弘を祭の会長にすると云ったのだが、中曽根は地元でも、一部の人しか支援しない為、
通産政務次官だった中島源太郎に陳情し、福田赳夫総理に御願いした。
 比国のマルコス大統領・韓国の全斗煥大統領に、此のM資金を持ち出し、
見返りに、莫大なマージンが、懐に入る訳で、利子は低いが、内密な瑞西銀行に預けて居る。
 総理に成る前迄は、改憲論者だったが、此のM資金と米国との密約を知り、改憲を断念した。
竹下登  中曽根に、莫大な資金を渡し、禅譲を受けた竹下昇は、M資金の存在は承知で、リクルート事件等は、痛くも痒くも無く、
金庫番の青木伊平秘書が平成元年(1989)四月ニ十六日に殺されたと云う情報が流れ、皇民党事件が元で、辞職する。
橋本竜太郎  虎ノ門病院で、大平総理と重夫が、M資金に付いての遣り取り一部始終を知って居る者の最後の一人で有りながら、
露西亜にM資金を持って行って居る。
小渕恵三  総理就任の際、M資金が使われた事をCIAも把握して居る。私は、電話や文書を戴いたが、此の事で、米国に殺された
  ◎画像は、母死亡時の弔電と小渕恵三総理発行の弐仟円札。更に、韓国の検索サイト<naver>での此のpage表示。
       此のM資金が、弐仟兆円有った事から、弐仟円札とした。
金丸信  山梨の自宅に、M資金の一部を持って行った。
 文鮮明を日本に入国させられたのは、日本弱体化の手助けをさせる事が条件だった。
安倍晋太郎  福田赳夫は昭電疑獄事件で、生臭い金に嫌気が刺した為、此の福田派プリンスが、抓み始めたが、総理に成れず、死去。
小泉純一郎  後継の小泉進次郎を総理にする為、日銀から八兆円準備し、
其の内の伍兆円を2002年の北朝鮮拉致被害者帰国に、伍兆円使用し、
 此の伍兆円は、弐拾年間のミサイル発射や金一族の豪華な生活で、遣って仕舞って居る。
 小泉進次郎が、婚約者を連れ、首相官邸に、乗り込んで行けるのは、こんな事由が、有るからです。
 尚、此の八兆円を得る為に、日本弱体化至上の米国に、政治的能力の無い杉村太蔵等の小泉チルドレンを登場させた。
榊原英資  ミスター円と云われた榊原英資は、重夫のM資金が、戦後の日本経済の基盤だった事、
自民党が不正に使って居る事、都市銀行・農林中金・興業銀行等が、此のM資金を扱って居る事を公表し、
平成九年(1997)の全国銀行協会の年頭挨拶で、「百﨑重夫は死んだから、安心して使って下さい」と話し、
富士銀行にM資金六拾兆円が、入った確認を取ったが、回答が無かった事実が有る。
安倍晋三  <さくらを見る会>と関連宴会の経費を政治資金収支報告書に、記載しなかったのは、此のM資金を使った事を意味し、
そして、河井案里への政治資金壱億伍千万円も、此のM資金を使った事を意味する。
 私が、反対して居る政党助成金を使ったのならば、私の支援する木浦・共生園に、360人を同行のニ階俊博幹事長は、
令和ニ年(2020)六月十九日の安倍晋三首相、麻生太郎副総理兼財務相、菅義偉官房長官、
甘利自民党税調会長会談に含まれて居ない。
 安倍晋三・麻生太郎の子分で有る浅草の反社に、私の分家では無い三宅昭夫は、二度命を狙わられて居る。
 安倍晋三を非難する大学教授は、入院中に、殺害された。餃子の王将大東隆行社長殺害事件も、関連が有ると言われる。
 安倍晋三は、吉本興業に、百億円与えて居る。皇室御用達と同じ様に、自民党御用達が有り、
此の吉本興業は、正に、其の自民党御用達と言える。安倍晋三は、最悪総理だった。
 2022年7月8日11時31分頃、第26回参議院議員通常選挙の為、
街頭演説を奈良市の近鉄大和西大寺駅前付近にて行っていた際に、山上徹也自作の銃で背後から2発撃たれ、67歳で、
死亡したが、森友学園問題で、自殺した同省近畿財務局職員赤木俊夫の妻、逮捕された森友学園の籠池夫妻等、
「あっぱれ!山上」の心境と察する。昔、統一教会は、国内で、銃を製造し、ロシアに輸出して居たが、関連有り。
 安倍晋三は、旧統一教会から、伍仟萬圓貰って居る
菅義偉  貧相な事は、総理経験者としては、トップクラスだろう。外に出すのは、恥ずかしい。
 秋田県出身と云う事で、秋田の皆さんが支援して居るが、投票は出来ないし、秋田に、貢献できないだろう。
 北朝鮮のミサイルが、最も、落ちやすい処は、秋田県で有る。
 酒が飲めないで、良く、政治が出来る物だ。
 ◎ 画像は、議員会館からの「回答する」のメールだが、回答は無かった。動画は、安倍晋三殺害時の日本経済新聞のニュース。
       森喜朗総理の彼女と云われた高市早苗は、山本拓と共に、統一協会が、結党した自由党のメンバーで、生粋の子分で有るが、
     岸田文雄総理は、2022年8月10日に、行った第2次改造内閣で、経済安保相に、高市早苗を任命した。

★ 此の様に、自民党総裁等が、M資金を金蔓として遣った。
 ◎ 画像は、画像は、元警察官僚からの書面で、最終ページと前のページ。
       此れを参考ソースにした訳だが、残念ながら、原作本は目にして居ない。
       そして、仝、<世界平和百﨑基金>設立計画書。何故、仝基金が出来ないのか?。
       何故、【百﨑社団】は、ヤマト運輸でも、見つからないのか?。幾らでも、協賛者は集められるのに、・・

  大平正芳総理は、百﨑重夫への感謝と功績を残そうと考えたが、其の場に居た自民党関係者は、
  重夫の存在すら隠続けたが、最近、web上に、【一般社団法人百崎重夫復興社団】を発見したのも、ページ公開の一因です。
  (上記、【百崎社団】宛、此のpage写しと書面を送ったが、該当なしで戻ってしまった)
  大平正芳総理は、百﨑重夫への感謝と功績を残そうと考えたが、其の場に居た自民党関係者は、
  重夫の存在すら隠続けたが、最近、web上に、【一般社団法人百崎重夫復興社団】を発見したのも、ページ公開の一因です。
  (上記、【百崎社団】宛、此のpage写しと書面を送ったが、該当なしで戻ってしまった)
  大平正芳総理は、百﨑重夫への感謝と功績を残そうと考えたが、其の場に居た自民党関係者は、
  重夫の存在すら隠続けたが、最近、web上に、【一般社団法人百崎重夫復興社団】を発見したのも、ページ公開の一因です。
  (上記、【百崎社団】宛、此のpage写しと書面を送ったが、該当なしで戻ってしまった)
  高松宮紀久子妃殿下の日記に、百崎重夫の名が記されていると云う。
  札幌高裁検事長から、参議院議員に成った佐藤道夫が、重夫に接触して来たが、表に出なかったと云う。

  自民党は、此のM資金を海外にばら撒きリベートを取り、派閥等にリベート分を分配するから、
 2016年8月22日リオデジャネイロ・オリンピックの閉会式で、
 「マリオ」の格好をしても、同年9月26日衆院本会議の最中に、国境警備等に携わる海上保安庁や警察、
 自衛隊に対し「今この場所から心からの敬意を表そうではないか」と自民党議員が立ち上がった事も、
 同年10月25日安倍晋三総理は、ドゥテルテ大統領に、フィリピンに50億円の円借款供与すると表明し、
 又、同年11月3日仝総理は、ミャンマー新政権の事実上のトップ、
 アウン・サン・スー・チー国家顧問兼外相と東京・元赤坂の迎賓館で会談し、
 八千億円の支援を表明した事も、許されるのです。

  議員が皆、国民の云う事を聞かず、総理・総裁の云う事を聞く、
 知恵の無いタレント・スポーツ選手に成ってしまったのに、
 使ったのが、MOMOZAKIの頭文字MのM資金である。

  ミャンマーに、八千億円出すのは良いが、太いパイプ造りの基礎にして貰いたい。
  日本の外交が三流なのは、他国の元首と対等で無い事。プーチン大統領が来日しても、総理が相手では、歯舞・色丹島は返還されない!!
★ 伊藤博文等は、皇室の歴史を研究・調査した上、退位・譲位は、天皇の地位が不安定に成り、国家が崩壊するとして、代表例に南北朝の混乱を挙げた。他国と対等の大統領制にすべし。!!。★

      102-0082 東京都千代田区一番町9番5号
      一般社団法人百崎重夫復興社団 御中

       謹啓。
       群馬の三宅と申しますが、初めて、文書送達致します。

       同封のホームページ写しの通り、百崎重夫氏の功罪に付いては、情報提供が有り、
      公表しようか如何か、永い間思案して居ましたが、
      御社の存在をWEB上で、発見し、公表の時期を得たと判断し、公表する物ですが、敬意を表し、
      訂正箇所が有る場合、御返信戴ければ、訂正したいと思いますので、宜しく御願い致します。

       日本は、英国と違い、差別が無いにも拘らず、皇族が有ります。
       私の先祖児島高徳公は、後鳥羽上皇の甥御と云う事で、南北朝後醍醐天皇等と転戦し、
      後醍醐天皇が亡く成った後、妙義神社を創建し、暫くの間、妙義で暮らし、娘を得ました。
       其の後、此処に帰り、仏門に入った訳です。

       百崎重夫氏は、我が国の復興に貢献した最大の貢献者と判断します。
       然し、今上天皇が退位を提言したのは、英国や泰国等と違い、象徴としての地位に有ります。
       M資金を管理する自民党関係者以外は、貧困に成りつつ有ります。
       ですから、我が国は、結婚する人は減り、結婚しても、子供を作る夫婦は減りつつ有り、
      年金は、三つの差別が有り、国民年金では暮らせず、日本に明るい未来は、有りませんので、
      海外から、其のマイナス面を補う必要が有ります。
       其処で、浮上したのが、先月来日したミャンマーのアウンサンスーチー国家顧問兼外相で、比国のドゥテルテ大統領と同じに、
      「我が国を中国と同じに、自国に利益が有る方に・・」と天秤に掛けて居ます。
       南支那海の粗全域を管轄主張している中国は、日本の石油輸送路を断つ戦法です。
       中国の石油輸送路は、ミャンマー国内に敷いたパイプラインで、供給して居ます。
       ですから、此れ以上の中国からの支援を抑える為、太い外交が必要に成る訳です。
       現在、313社の日本企業が、進出し、気象庁の技術で、天気予報も正確に成りました。
       ミャンマーは、非常に縁が有り、<ビルマの竪琴>のモデルに成った中村一雄は、私と同じ群馬県人です。
       05年より、日本で、廃車と成った気動車(機関車・客車・路面電車)を積極的に購入し、
      ミャンマーの広い地域で運行しています。
       備長炭づくりを拾年に渡り、行いながら、現地人に指導している和歌山県人も居ます。
       ミャンマーの若い人達を研修生で、入国させ、老人対策として、被災地にホームを造り、
      ヘルパーを遣って貰う事を急がなくては成りません。
       外国人研修生の30%程度は、逃げてしまうのが、現実ですが、
      私の近くに、約二百人ミャンマー人が住んで居ますし、良い方法が有ります。
       安倍晋三は、8千億円を援助する事を約しましたが、一部は、M資金から出ると考えますが、如何でしょうか?

       習近平や他国の元首に対抗するには、日本も大統領制にする必要が有ります。
       韓国は、五年毎に社会が替りますが、韓国程で無くとも、憲法を替えて、社会を替えるべきです。
       被災地支援の仕事を三年間しましたが、
      国が発注した除染事業を受けたゼネコンの下に山口組が有り、儲けの殆どを取ってしまいます。
       他の公共事業も、同様で、反社会的勢力排除云々は、掛け声ばかりで、地下に潜って居ないマフィアは、日本だけです。
       福島で、被災した人達の為に、私達の電気料が上がると云う事は、間違って居ます。
       韓国でしたら、東京電力と云う民間会社は、潰されて居ます。

       カジノ法案が可決され、大阪にカジノが、造られる予定ですが、
      安倍晋三は、パチンコ業者に、永く支援を受け、其の恩を返すと云う事です。
       パチンコ業者は、既に、仁川・マニラ・シンガポール・クアラルンプールにカジノを経営して居ます。
       ミャンマーには、三軒カジノが有りますが、私は、臓器移植の病院を造りたいのです。
       韓国は中国から、臓器を買って居ましたが、中国が、
      強く反対する米軍の高高度ミサイル防衛システムを配備した為、関係悪化で、需要大で有る事が、眼に見えて居ます。

       百崎重夫復興社団をもっと表に大きく出し、意義の有る事業を行うべきです。
       近日、御伺いしょうと思いますので、御連絡を御願い致します。
                     敬白。   2016・12・15

      日韓親善NGO活動34年国際協力団体 東亜友誼慈業研究会
      総務大臣届出済全国政治団体      三宅藤原氏族会  会長 三宅英雄(号 昔城・元新聞記者 児島高徳公陰陽二十四世裔)
                〒370-0516 群馬県邑楽郡大泉町中央2-10-19  TEL&FAX 0276-61-0560

【残り、弐拾伍年間天皇裕仁の為米国の植民地から、抜けられ無い。米国の思い意の儘の証拠

 ◎ 画像と動画は、2019年5月26日大相撲夏場所千秋楽に、「通常の貴賓席ではなく升席での「特別扱い」には疑問の声も出た」様子。

      本会は、2012年7月8日(日)大泉町文化むら大ホールに於いて、 被災地支援映画「フラガール」上映会上映会に続き、第二弾から、第八弾迄、
     「除染作業」等の支援をしたが、「被災地の悪徳業者1」「被災地の悪徳業者2」等酷い目に遭い、 ブラックリストの為、撤退しました。
大熊町役場会津若松出張所を訪問、交通整理の赤井光清氏との出会いと被災地復興計画
双葉郡復興は、社会貢献する事業計画しないと再び、災害を受けます。★
復興の核は、山本信人博士のGcMAFHIV等感染症難事病患者を短期 完治させます
双葉郡の一行政に GcMAF工場病院設置、病に悩む皆さんを救済。★
水脈探査した母なる大地に、栄養分が有る我々の遺体を還す<土葬霊園>を山腹に造成。
自然災害が多いのは、山に埋葬しない事で、遺体を燃さず、大地還す。★
大熊町役場を再訪と木幡ますみ町議と面談後、竜田駅視察。力強い助っ人中村守保博士
協力戴けない方が、多い中で、水耕栽培高齢者施設等の御協力を得る。★

誰もが望む、健康と長寿の万能薬・食べる化粧品<乾燥厚岸草・鹹草/함초>顆粒
万能薬 &食べる化粧品「厚岸草함초」を尋ねて、 仁川江華島訪問2015.6.1.
万能薬&食べる化粧品厚岸草鹹草/함초貴女に、御提供します!!。★


日韓親善NGO活動41年国際協力団体  東亜友誼慈業研究会
総務大臣届出47年全国政治団体   三宅藤原氏族会
会長   三宅英雄 (号 昔城 元 読売新聞記者)   私のルーツ
〒370-0516 群馬県邑楽郡大泉町中央二丁目-10-19  電話&Fax 0276-61-0560
公開2016年11月20日  更新2023年10月05日 <敬称略>

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